仕事を辞めて一月余り。
少しばかり旅に出た自分は、いくつか気づきがあった。
大したことではない。
「当たり前」のことだ。
自分が訪れた場所は、どこも人の手が加えられている。
雄大な自然を満喫できる場所でさえそうだ。
登山をするにも、その道は整備されている。
また、そこに辿り着きまでの車道。
今回、剣山に登ったり、山奥のお寺を参ったり。
けっこう、険しい道があった。
対向車が来ないことを願いつつ車を走らせた。
側溝にタイヤを落とさないよう、慎重に慎重に。
ガードレールが途切れた場所は、不安と恐怖でしかない。
またガードレールが現れて、ほっとする。
カーブミラーの存在は本当にありがたい。
ここで、ふと思った。
こちらは、慣れない山道をひいひい言いながら車を走らせる。
だけど、この険しい道を切り開き、車道に整備してくれた人がいる。
この細い道で、あの大量のガードレールを。
いったい、どのようにして、どれだけの時間をかけて。
カーブミラーだって、人の手で運ぶのは大変だろう。
アスファルトを敷くのだって、いったいどうやって?
そんなことに気づくと、全部が全部、とてつもないことだと思えてきた。
山を掘ってトンネルを作ってくれた人。
山頂まで電気や水を引いてきてくれた人。
下山する時、山小屋の開店準備をする人とすれ違った。
キャタピラ運搬車に物資を乗せて、登ってくる。
あんな台車があることも初めて知った。
お寺もそう。
比較的町中にあるお寺は良いとして。
中には、とんでもなく険しい山の上に建てられたお寺。
登りながら、「なぜ、わざわざここに?」
という、煩悩まみれの疑問が湧く。
当然ながら機械などなかった時代。
道具だって、ろくになかったことだろう。
それこそ、気の遠くなるような時間と労力をかけて。
石や木を運び、積み上げていったのだろう。
名前も顔も想像すらできない先人に対して、勝手に想う。
そのご苦労に対して、畏敬の念と感謝の気持ちを抱かずにいられない。
石を運んだ人、積み上げた人、工事に従事した人。
あなた方の尊いお仕事のおかげで。
自分はさまざまな恩恵を受けている。
これらのことは、今までだってまったく知らなかったわけではない。
だけど、「当たり前」のものとして、見過してきた。
今回、今までなかった時間を得て、過ごしている中で。
今まで麻痺していた感覚に少しだけ神経が宿り始めている。
そんなことを感じ、考えていた矢先。
中村文昭さんの言葉が自分のタイムラインに流れてきた。
これも、過去に何度も目にしたことがある気がする。
だけど、本当の意味で、自分は理解できていなかったようだ。
そして、今こそやっとその意味が分かった気がする。
同じ言葉でも、やはり自分が見て、感じて、考えてみないと。
なかなか理解に至るのは難しいということにも気づく。
話が広がりすぎてしまった。
いずれにしても、今目の前にある「当たり前」のこと。
今一度見つめ直してみよう。
いつも心に「ありがとう」
あらためて、大事にしていきたい言葉。